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ディック・プライス インタビュー記事(1985年)

エサレン研究所の歴史は、1960年代の米国カリフォルニア州で、スタンフォード大学時代に友人であった、ディック(リチャード)・プライスとマイケル・マーフィーの出会いから始まります。
下記は、1985年に事故で他界した、ディック・プライスのインタビュー記事です。関西でのエサレン®ボディワーク資格認定コースのテキストから引用させていただきました。
気づき・今、ここ・プロセス・あるがまま、、、エサレン研究所のエッセンスを理解するのに、とても、役立ちますので、シェアしたいと思います♪ 
明日から、認定コース、パート3、エサレン研究所での研修の旅に向かいます。
エサレンの源流に向かい、その種火が世界へと広がりますように。

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エサレンの共同創設者、ディック・プライスは1985年11月、ハイキング中の事故でこの世を去った。
このインタビューは1985年4月、2日間にわたり行われた、ウェイド・ハドソンという、サンフランシスコのライターであり、かつ革新的な集団共同生活に関わる活動家によるもの。

ウェイドは自らのコミュニティメンバーを数人、エサレンに同行させて、ディックのゲシュタルト・ワークショップに参加した。ディックのように、ウェイドは精神病棟に拘禁されていた経験を持つ。彼とディックは患者の人権問題にかかわる組織を通じて出会った。ディックの75歳の誕生日(2005年10月12日)への祝いもかねて、彼の想いと思い出をいくつか、ここに紹介します。

WH(ウェイド・ハドソン): エサレンのビジョンは、どのように生まれたのですか?ここ(エサレン)であなたが活動を始められたのは、いつごろですか?

DP(ディック・プライス): 私は1957年の感謝祭の日に、精神病棟から1年半ぶりに退院しました。病院でされた事の影響で、退院後はしばらく、自分が入院前に興味を抱いていたことに関しても、何をする気力もありませんでした。私は科学的研究専門の心理学者か、メンタルヘルスと病気に関する人類学者になることに関心があったのです。私自身が、“精神病“とラベル付けされたことと、精神病院システムに入れられた経験があったからです。精神病院から退院後、私は家族が居たシカゴ周辺で働いていました。経済的にも精神的にも、蓄える計画をしていました。ビジネスに人生を費やすより、何かをしたかったのです。私のような体験をした事がある人たちが、よりよい治療が受けられる場所を見つけ、私が知り得たことを役立てたい、と望んでいました。

WH: 50年代後半~60年代は、どうでしたか?

DP: シカゴを離れて、1960年5月にサンフランシスコに戻りました。フィルモアの北部エリアにあるシェアハウスで1年ほど暮らしました。後半の2~3か月はサンフランシスコ市内のアウロビンド・アシュラムCIF(The Cultural Integration Fellowship)で過ごしていました。その時、そこで暮らしていたマイケル・マーフィーに出会いました。彼の祖母が、田舎に土地を持っていると話していました。ちょうど私は、精神科医で、自身も精神病棟に入院していたことがある友人に話をしました。私達は、通常の精神病院とは違った治療を行える場所を見つけることについて話し合っていたのです。マイケルは、この分野には特に関心を示していませんでした。彼は、インドのアウロビンド・アシュラムで1年以上過ごしており、彼の関心はむしろ、瞑想や知的な生活のほうにありました。私達は最初、その土地を、幅広い分野――信仰や精神病学にこだわらず、瞑想、信仰、特定の体験などに適応できるような研究センターに変えていくことを話し合っていました。私達が目指していた唯一の確実な方向性は、CIF代表であり、アジア学会の教授でもあったハリダス・チョーダリのような人物たちでした。

WH: CIFに行ったきっかけは?

DP: 私は、世間一般で言われる精神病というもの・・・私自身は単に「状態」と考えていますが・・・になり始めて居た頃、チョーダリの生徒でした。1955年から1956年初頭まで、私は米国アジア学会で学習していました。チョーダリはそこで教鞭をとっており、当時はアラン・ワッツが学部長でした。私はサンフランシスコに戻ってから、再びワッツとチョーダリの講義を聴講しました。チョーダリはCultural Integration Fellowshipという組織を立ち上げたところでした。そこでアラン・ワッツは、当時すでに学会のメンバーではなく、独自の活動を始めていたので、私は彼のクラスを受講しました。CIFでチョーダリが開いていた講義にも、いくつか参加するうち、私も(CIFに)移動しました。

WH:現在のエサレンを形成するきっかけとなった転機というのは、当時何か、ありましたか?

DP: 転機はいくつもありましたね。まずは、1961年10月に、そこ(CIF)を引き継いだことから始まります。当時はまだ経営が混成していましたが。私達は、いわゆる「道を外れて」、架け橋を築いている人たちと集めていました。まずは、アランなど、私達がすでに持っていた人脈を通じてプログラム形成を始めました。たしか62年頃ですが、初期プログラムの一つはアランによるものでした。アランは彼自身のメーリングリストで、独自のプログラムを始めました。当時、私達は、各自が師事することを、自身のメーリングリストとプログラムで実施しており、研究所としての「場」を彼らに提供する形式でした。次第に、翌年あたりだったと記憶していますが、私達は独自のカタログを作成、配布し、エサレンという実在が形成し始めました。その前はビッグ・サー・ホットスプリングス有限会社でした。最初は週末だけ営業し、次第に5日間プログラムを2~3種類開催し、ドロップイン(予約なしで立ち寄るスタイル)だけを受け付けていました。
その後、徐々に、1967年頃だと思いますが、ビッグ・サー・ホットスプリングスの看板を下ろし、エサレンのサインを掲げ、その場所全体を研究所にすることに向いました。大きな転機は、ここに人が移住し始めた事ですね。1964年にはフィッツ・パールス、ヴァージニア・サティアもその頃でしたね。ウィル・シュッツは1967年、ほかにもシャーロット・セルヴァ―、チャールズ・ブルックスなどの移住者があり、彼らは駐在共同経営者となりました。 彼らは敷地内ではなく、ビッグ・サー内の、ここから20キロほど離れたところに住んでいました。

WH: あなた自身の動機と、なぜ当時、あなたは既存の状態に不満足だったのかを教えてくださいますか?なぜ違うことをしたいと思われたのでしょう?

DP: メンタルヘルスと呼ばれる域で違うことをしたかった理由ですか?

WH: そうです。

DP: そうですねえ・・・、私個人の経験でもあり、あなたもご自身の経験からご存知かと思いますが、酷いものでしたよ。特殊な経験をした人たちを観察するのは、自分自身が経験してきたことを押さえつけて、打ち消すような努力の連続でした。根本的な過ちがあったわけです。その過ちとは、「ある過程によって病が癒えたこと」よりも、「(病が)癒される過程自体が『病である』」と想定して見つめたことなのです。もし「病」というものがあるのだとしたら、「精神病」の前にある状態なのです。「精神病」と呼ばれるものは、病に対する自発的な癒しへの試みです。健康に向かうムーブメントであり、病を対象としたムーブメントではないわけです。

WH: あなた自身の体験は、当時どうでしたか?

DP: ちょっと話しづらいことですね。とにかく幅広い体験でしたよ。神秘的とも呼べる分野のものもあったし、大きな宇宙との関係性で、自分自身をどう位置づけしているかを発見したり、その感覚を取り戻すような体験でしたが、精神科医には、このノリでは話さないですよ。彼らにとってその状態は、「非常に深刻な病状」になってしまいますからね。

WH: あなたはどんな空間を作りたかったのですか?あなたにとって、当時何が役に立ったと思われますか?

DP: エサレンのような場所ですね。野外で、閉じ込められずに過ごせて、良い食事を摂れて、何かを覆い隠さず、同じような体験をした他者が作り出したネガティブな自己定義が無く、あるがまま体験しながら生きていける場所です。そして、精神科医や、あるいは多くの人がするような、特徴的なことをしないスタッフが居る場所です。

WH: では、代わりに何をするのでしょう?

DP: 私には三つのキーワードがありました。プロセスを信じること、プロセスと共に居る事、立ち入らないこと、でした。言い方を変えると、何が起きていても、それを抑圧せず、信頼して、その体験に空間を与えることです。特定の社会的に条件づけられた生き方だけが正しいと決めつけずに、自由裁量でそのものが「健康」であると定義していました。精神医学を神秘化するような風潮があります。少なくとも私自身はそれを体験したわけですが、この神秘化によって、あらゆる残虐行為が正当化されているのです。

WH: あなたは、フリッツ・パールスの影響でゲシュタルトに関心を持ったとのことですが、フリッツ氏と初めて会った時のことをお話してくださいますか?

DP: 彼は、1963年のクリスマスにプログラム講師として来ていました。彼への第一印象はあまりよくなかったですね。実は、フリッツは当時、心臓発作を起こしたばかりで、いつ死んでもおかしくないと考えていたようです。社交的な意味で、決して素敵な人ではない面が多々ありましたし、彼が元気になってからも、私にとっては、彼と共に仕事を始めるには、初対面の日から数年かかりましたよ。 1965年クリスマスから翌年の正月ごろ、私は彼と仕事を始めました。私は彼がしてきた仕事の内容と、グループの中での彼の在り方の素晴らしさに感銘を受けました。日常的に会話しているときの彼とは別の人みたいでした。

WH: グループ内での彼のワークのどういう所が印象的でしたか?

DP: 彼の洞察力ですね。彼の存在感。そして優しい。全てが、ロッジや敷地内での普段の生活での彼には見られない部分でした。私が(精神科医たちの治療によって)体験してきた事とは全く違い、この人物は、精神科医としてすばらしい仕事をしているな、と感動しました。その結果として、彼はカリフォルニア州で精神科医として仕事をすることが許可されなかったのです。ここには精神医学など在りませんでした。精神科医であっても、彼らはここでは精神医学を行うのではなく、実験的教育をしていたわけです。彼はここで、新たな分野を定義できたのです。それが新しいとは言い切れないですが。フリッツ自身は、ゲシュタルトは世界と同じくらい古いものだと語っています。それは「原始的社会」と呼ぶに近いヒーリングであり、シャーマニックな癒しと儀式の分野です。こうしたアプローチは、ある人間を何等かの形で修理する対象として見るのではなく、より人間的なもので、人間同士としてふれあうものでした。

WH: あなた自身がゲシュタルトを始めるまで、どれくらい期間がありましたか?

DP:1966年初頭に、フリッツとワークを始めました。69年春に二度目の精神障害が起きたため、それまで13年間、自分が完結できなかったことが浮上し、大きな影響がありました。それらの未消化なもの、ほとんどがビッグ・サーで完結しました。「エサレンで」ではありません。当時私は、そこに土地を所有していた精神科医ではない友人たちと同居していました。彼らは、当時の私に起きていることを、あるがまま体験させてくれる空間を提供してくれていました。1956~57年にかけて1年半、入院させられたあの頃と違い、その時はわずか10日間で落ち着きました。 1969年夏頃、私が(友人たちのところから)出てくると、フリッツはちょうど彼自身を立て直しているところでした。彼は6年間滞在後、ここを去り、カナダに渡り、ヴァンクーバー島のアデレード・カレッジ内のゲシュタルト研究所で自分自身を再構築しました。私は69年の終わり頃に彼の最後の3か月間クラスを二つ、受講しました。そして69年末に、カナダからここに戻りました。 フリッツはその冬に、カナダを離れてヨーロッパツアーに向いましたが、そこで病に倒れ、アメリカ帰国後も病状は悪化したため、二度とカナダに戻ることはありませんでした。 そして70年3月、シカゴに向かう途中で永眠しました。 カナダで彼と過ごした数か月間は、訓練期間でした。私は前年の自分の体験を統合するよりも、トレーニングを受けに行ったつもりでしたが、フリッツに「ディック。君自身がグループをもって教える時が来たね」と言われました。ですから1970年にここに戻り、教え始めたのです。

WH: あなたがフリッツから学習し、実践したゲシュタルトは、基本的にゲシュタルトと同じでしたか?それとも何か変えましたか?

DP: フリッツが強調していたのは、「僕は、フリッツの弟子、みたいなのを大勢つくりたくない。」ということでした。私はフリッツから学んだことを、私のワインボトルに詰めたのです。基本的な共通点はありますし、たくさんの違いもあります。私はディックであり、フリッツではないからです。
私は、フリッツにとても感謝しています。フリッツが実際に、「私から(学んだことを)持って、それを使って自分自身の事をしなさい」と許可してくれました。彼はそういうやり方でした。ゲシュタルトとして一本化された学校というのは、私は実際に存在しないと思っています。各所のゲシュタルト研究所では、そういう試みはありますが、ゲシュタルトは一本化されるものではないと思いますし、私自身、多くのゲシュタルト研究所のことは、あまり知りません。あまり関心がなかったからです。私には、マスターとの関係はあれど、ゲシュタルトの学校に行く理由は無かったし、たとえ行っていたとしても、それが(ゲシュタルトという)商品を一本化することにはならなかったと思います。

WH: ゲシュタルトについて全く知識が無い人を想像してください。あなたなら、どうしますか?

DP:ゲシュタルトは、「何かをする」ものではないので、私は何もしないです。フリッツの表現で言えば、「医師と患者」という対の関係を、私は反映する者と反応を起こす者、ということです。反応を起こす側は、過去に患者役を演じていた人たちのことです。反映する者としての私の機能は、相手のプロセスで起きていることが何であれ、それを反映し、明確化する、というシンプルなことです。ですから、私は相手が何をすべきか決めたことはありません。私は、独特な方法で、ただそこに居る、鏡のように在るだけです。反応を起こす側は、自分自身の体験を貫く、という役割があります。刑務所か、診断されて決めつけられるかのいずれかである、標準化された精神医学とは全く異なりますね。

WH: オープンシートとはどういうものですか?それは、あなたのワークの中心的な形式なのでしょうか?
DP: そう、それが中心です。たとえば、15人が円になって座っているとしたら、私は基本的な気づきのワークをいくつか行います。

WH: いわゆる、基本のワークですか?

DP: 基本のワークは、呼吸に意識を向けてから、動きに入ります。運動感覚から、身体感覚状態、感情、思考、イメージに移行します。大切な事は、ここでもやはり「今、ここ」を中心としたコンタクトで、評価しないことです。ワークの重要点と基本は変わりません。ここで実践するのは、誰かを変えようとしないことです。大切なことは、コンタクトすることです。私の、補助的な存在としての役割は、その人自身が体験するコンタクトを、外部の他人に定義されるのではなく、あるがままに支えて体験できるようにすることです。

WH: つまり、気づきと瞑想のエクササイズの後は、あなたのオープンシートに参加するチャンスがある、ということですか?

DP: または、参加しない、ということもね。

WH: なるほど。

DP: いわゆる『反応する側』に全ての選択権があります。患者とセラピスト、という関係性とはかなり異なりますね。「患者」という意味合いに対し、反応する側は、能動的な役割を意味します。私にとっては、(セラピーなどで)あおむけになっている受け身側が実際は行動する側なのです。私が思うに、医者の役割は、行動する側です。セラピーは能動的なものです。ですから、これはセラピーではなく、実践なのです。セラピストが患者に対して行うものではなく、二人の人間が相補的役割を共に実践するものです。

WH: では、もしオープンシートの段階に行けば、何が起こりますか?あなたはどのように対応しますか?

DP: 何が起きても、それが起きるというだけです。私は何が起きても、それを反映し、明確化するために対応します。大抵の場合、参加する人は特定の状況について話します。過去について、または未来への推測を語るので、そこで全てが現実で現存することである、と認識します。ですから、あなたの幼少時代という過去を私に語るというよりは、あなた自身がイメージして、あたかも今、それが起きているかのように、私に話してもらうのです。そこで(私が)継続的に指示することは、シンプルです。それがリアルに今起きているように話す、ということです。未来の状況に対しても同じで、未来のイメージを語るのです。反映する側としての私の機能は、反応している側がイメージしている話が、過去形や未来形の憶測ではなく、現存している事であるように手助けすることです。あなた自身が、そこに居ることを想像してみてください。あなたはどこに居ますか?何をしていますか?どんな体験をしていますか?あなたは他者をどう体験していますか?ゲシュタルトの言語は現在形です。これは実に、(精神分析の)「夢の仕事」でもあります。夢について語る、あるいはそれを分析しようとするのではなく、イメージとして夢の世界に入ります。たとえ言葉で表現できなくても、その夢の部分的存在になるのです。あなたは動物にもなれるし、家にもなれる。それであって、離れた場所からそれを語っているのではなく、全てが現存する中心であり、それに対応して、体験として入っていくのです。

WH: さきほど、何かを変えることが目的ではない、とおっしゃいましたが、参加者の多くは何か変えたい、あるいは何かを解決したくて参加するのでは?

DP: ここで実践するのは、「それが何なのか」を体験することです。何かを変えるというのは、それが起こるように仕向けるのではなく、それが起きるようになっていた、あるいは起こる必要があったのだ、と体験することです。何かを、どう変えたいかを想定していても、実際に体験してみると、そこで起きた変化が、たとえ最初に自分が想定していたものと全く別物であっても、満足しています。ですから、「どうあるべきか」を決めつけるよりも、起きていることにオープンであり、それに伴う姿勢を示せることが重要なのです。これは、反映する側にとっても大切な姿勢なのです。反映する側として、私はあなたという反応する側の人が、どうあるべきかを決めつけることはしません。もしかしたら、あなたの実践を見届けるうえで、私なりのアイデアが浮かぶことはあるかもしれませんが、ここでも、選択権はすべてあなたにあるのです。私が「この人には、これが良いだろうな」と分かっていても、あなたをその方向に仕向けるようなことはしません。それをすると、私に権威が与えられてしまうからです。唯一、私が持つ権限は、ゲシュタルトそのものを適切に実践できるように、その定義を示すことだけです。あなた自身の体験について、そしてその中での選択はすべて、あなたに権限があるのです。

WH: つまり、あなたの意図していることは、相手の気づきを強化する、あるいは深めることを支え、反映する、というものでしょうか?

DP: 私の役割は、鏡として、相手のためにそこに存在することです。他人が出来ることはたくさんあります。そして私自身は、そこで鏡として居るわけです。一つの例を挙げると、もしあなたが髭を剃りたいとします。鏡が無くても、できますよね?でも、鏡があれば、髭剃りがしやすいですよね?もちろん鏡が無くてもできるわけです。私がしているのは、そういうことです。そして、ほかに私の主要な役割として言えることは、回避している存在の確認を手助けすることです。たとえば、あなたが怒り、憤慨する、あるいは、悲しむことについて、それをしてはいけない、と考えている場合に、私は「ちょっと待って。今感じている怒り、悲しみ、苛立ち、とにかく、今の感覚を、そこでとどめてみて。」と伝えます。そして、あなた自身に体験してもらいます。あなたは、私の指示には従わないかもしれません。従った場合は、スローダウンし、その感覚に入っていきます。そして多くの場合、あなたは自分を独自の方法で抑圧していることに気づきます。言い方を変えると、たとえばあなたが悲しみを感じているとしたら、自分が泣くのを許すことによって、悲しみの感覚がなくなっているのです。これが、起きる変化を許すことなのです。ここで重要なことは、目的が「悲しくなくなる」ことではなく、シンプルに「自分の悲しみに触れる」ということです。その後も、しばらく悲しいままかもしれません。それはわかりません。私にとっての三大要素、ゲシュタルト実践の三つの宝石とは、気づき、選択、そして信頼です。あなた自身を自律する力、体験から気づくことを実践する、そこから選択する能力を信じることです。その信頼を見つけていくにつれて、あなたは、私のような人物を必要としなくなりますし、もちろん、普通の精神科医は不要になります。

WH: 重要なことは特定の目標や、特定の状態の達成を渇望することではない、とおっしゃっていますが、ゲシュタルトの考え方には、二次的あるいは潜在的な目標や価値という部分があるように見えます。私はそれらの価値は何なのか、を明確にしたいと考えています。

DP: 特定の変化や解決を求めてグループに参加しているのではない少数派も居ます。(変化や解決は)常に、そこに起こり得ます。私はそれを悪いものとする気はありません。しかし、実践とは、コンタクトの一種であり、ある種の再配向を必要としますが、変化ではありません。ある人は、何かを解決したいと思っているとします。その人は、それが他の何かであってほしいのです。ですが、その人がそうしたいと思えば思うほど、「なぜ、こうなるのか?」という枠組みにとらわれて、「どうすればいいか」というのが見えなくなり、効果的に同じ状態に留まろうとしているのに気づきます。そういう矛盾が起きているのです。合気道などの、道教のようなものです。許容することにより、変化が生じる。強要ではなくコンタクトし、許容すると、変化が生まれます。起きることに対して、あなた自身がどうあるべきかを頑なに決めつけず、強制せず、オープンでいることが原則です。

WH: ゲシュタルト的な考え方の二次的、あるいは潜在的な目標や価値について、どうお考えですか?明確化、シンプルであること、正直さが含まれるように、私は感じておりますが。

DP: 環境的な支援よりも、自立に向かうことが、一つです。個人の自立という視点ともいえるかもしれませんが、外部への依存が無いという意味で、グループにおける自立とも見ることが出来ます。ラジニーシは、彼の書物において強い影響力がありました。あなたは自立のための環境問題について語っていますね。フリッツはこれを過度に重要視していたと言えます。彼は、他者に依存しないことに徹底していて、その理論が彼自身の病理学にある程度、反映されていました。ラジニーシについて私が気に入ったのは、「依存から自立に移行し、相互依存の必要性を認識する。」と表現したところです。私達は、ゲシュタルトで、求めている方向について、個人が環境的支援から自立に移行しつつ、相互依存への認識を持つことを語ります。表現を変えて言うと、『私は誰のことも必要としていない』という自立の仕方ではなく、特定の境界線の中で、(相互依存の必要性を)認識できる、ということでしょうね。


<訳:谷裕子>

2014年11月22日開講 エサレン®ボディワーク資格認定コース(関西&エサレン研究所) 
http://eb-kansai.com/

ディック・プライス(左)と、マイケル・マーフィー
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